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萌え4コマとは主人公を待ち合わせている女の子たちのふわふわである。


 タイガー道場に挫折し、ギャルゲーそのものから逃避するように萌え4コマ漫画を読み始めて感想はすでに30本。月5誌の萌え4コマ雑誌の感想をコンスタントに書くようになって、何ヶ月か過ぎました。
 感想100本という目標はいまだ健在だけど、現時点で読みたい未読単行本をあわせても50本に届いてないという事実に気づいてしまって、さすがにペースダウン。だって、ここで無理して興味のない作品を読んで「いかにつまらないか」表現するのに頭をひねるなんて不毛じゃないですか。

 ま、好き勝手に始めて打ち立てた目標だから、だいいち誰も読んでないし誰にも勧めていないし実際誰も買っていない。若い頃の就職面接で面接官に「もっと具体的に話してください」と苦笑されて以来、僕には「具体的」という言葉の意味がよくつかめないから。
 誰も好きこのんで意味のないことをやってるわけではないのですよ。誰より僕自身意味がわかっていないのだから、具体的にしようがないじゃないですか・・・・・・。

 その点、ギャルゲーに関する書き物は具体的さを求められないから好きです。気が休まります。ではなぜギャルゲーから逃げて萌え4コマにハマってるんだと考えたとき、ああそうか、つまり萌え4コマはギャルゲーに似てるんだということに思い当たったんですね。今回はそんなお話。


090817c.png 結構前の作品になるんですが、「魔法はあめいろ?」というエロゲーがあります(主題歌がI'veです)。この体験版がですね、すごく面白かったー。序盤のエピソードを"つまみぐい"できるオーソドックスなものではなく、ヒロイン3人がプレイヤーに面と向かって作品の説明をする、女の子たちがただひたすらしゃべっているだけというちょっと変わった趣向なんですけどね。

 本編の主人公すら登場せず、立ち絵の変化を織り交ぜながらヒロインたちの、饒舌でハイテンションなやりとりによって「魔法はあめいろ?」がいかに面白いかということを熱く語っている。3人娘の弾けた個性と暴走するコントがもう抱腹絶倒でありまして、実を言うと本編以上に楽しかったんです。
 というか、あの体験版に感じられた(花開いていた)萌え4コマ的な魅力を、本編主人公の存在そのものが損なっていたのだと、だから好きになれなかったのだと今なら言えます。言っちゃえます。

 僕の逃避、そして「魔法はあめいろ?」の体験版を振り返ってみて、萌え4コマに登場する女の子たちが繰り広げる予定調和的なコントは、ギャルゲーでいう「主人公がその場にいないシーンにおけるヒロインたちのやり取り」みたいなものかもしれないと、そう思ったんですね。
 1回ずつクリックする、1コマずつ縦に読む――それは大気圏内の物理法則みたいに無謬的で、迷いようのない世界だいうことが、今はまだいない主人公の来訪を信じて待っているヒロインたちの他愛ない日常、安穏とした生活その繰り返しにあって、幸せを《約束》するものなんじゃないかって。


 もちろんどんな萌え4コマ作品にだって主人公は設定されているでしょう。しかし4コマ漫画というものがその存在意義に賭けてオチを果たさねばならぬものであり、オチとは主人公の独り言や思考の展開のみで容易に為せるものでないから、どうしても相方(他者)が必要です。
 基本構造として、ボケがあってツッコミがある。その派生として和みや感動があるとしても、コントであること(二人以上関わってくること)から逃れることはできません。設定的に主人公が定められているにせよ、持ちつ持たれつという意味で主人公を含めすべての登場人物の関係は対等なんです。
 主人公があって、脇役がいるというよりも、いろんなキャラクターがあって、比較的主人公的なキャラクターがいると捉えた方が実際に即していると僕は考えます。

 もちろん多かれ少なかれ(遅かれ早かれ)ストーリーが展開してゆくのだから、そういう意味でも主人公(性)は欠かせません。しかし1~3コマがドミノみたいに4コマ目へ倒れるように設計され、倒れるための重力がコントである以上、物語とは実質総(コント)当りなんですね。
 それはまるでおしくらまんじゅう、誰かが押せば「なにすんねん」と他の誰かに抵抗され(笑われ)、たまに足元を見るとけっこう移動していたことを知る。踏み固められた地べたの系譜、だからあくまでストーリー”系”。
 ひとり決意し、ひとり努力し、ひとり獲得するというようなストレートで自己完結したストーリーの構築はゆえにどうしたって難しいです。

 確かに主人公は設定されていて、何より物語とは主人公のためのものだけれど、萌え4コマにおける主人公はこのように"実行"されておらず、しいて言えば"仮執行"しているヒロインが幾人かいるだけ。そもそもメインキャラが女の子ばかりであるという身も蓋もない事実も含めて、男性読者が感情移入する対象としての主人公はいないんですよ、これはもう認めるしかない。
 主人公がいないとはどういうことか。まだ登場していないということなのではないのか。でも主人公の登場しない本編はありえない、ということは萌え4コマ漫画とは"体験版"ではないのか?そもそも体験とは何だ、それは「知らなかったことをする」ということ。
 であるなら、女の子たちがここぞとばかり百合百合しく振舞おうが、バイオレンスに走ろうが、おやじも食わないダジャレ合戦をしようが、ハメを外せば外すほど際限なく生き生きとする(面白くなってくる)のも道理でしょう。

 彼女たちは、主人公が現れていないがためにどんな姿を晒そうとも決して《奪われない》存在であって、だらしのない無防備さをついうれしく感じてしまう。読者のそんなうれしい気持ちこそ、萌え4コマの笑いの根底を成すもの。うれしいから、おかしいんだ。


090820a.png 萌え4コマ漫画でさかんに(?)描かれる女の子同士の入浴シーンや、無理な角度からのぱんつ、性的な話題やソフトなフェティシズムがぜんぜんいやらしく感じられないのも、そこに主人公がいないからなんですね。
 そもそも女の子の"あられもない"肢体や、それを炙り出すまなざしがエッチっぽくあるためには、それを見られることで本人に「恥ずかしい」と感じさせる対象が必要です。女風呂でおっぱいを触りあう女の子同士を微笑ましく眺めている女の子にエッチっぽさをプロデュースしろというのは酷な話でして。

 むべなるかな彼女たちを恥ずかしがらせる主人公は現れず、どんな媚態を見せようとも彼女たちがエロくなることはない。ただひたすらに《奪われない》。貞操はまるで溶けないアイスのようにスウィートな芳香を読者は嗅ぎ続ける。恋愛感情すらそれを溶かすことはできないのです。(ちなみに右画像は「つばき絶対数値」)


 彼女の大切にしている人形かペンダントから覗き見ているかのような世界像、デートの待ち合わせ中たまたま出会った友達とのふわふわしたやりとり。それが萌え4コマ――。
 常にデートの待ち合わせをしている主人公の、不存在が、彼女たちの《恋愛》を潔癖に吸い取って、劇中に存在しないという意味で等しくある僕ら読者は、どんなことをしたって許されて、おかしくて、かわいらしい、戯れとしての萌えを、うわまえとしての愛おしさを、彼女たちのふんいきからから撥ねているのです。
 取るに足らない出来事を、いくら取っても物足りない(終わりがない)・・・・・・。

090820b.png ま、未だ現れぬ主人公こそが読者なんだと言いたいわけなんですけどね。主人公がいない《奪われない》から安心して、主人公は自分だからうれしい《恋愛》けれど、手を出せないこと《約束》がもどかしくて・・・そんな三竦み状態が、萌え4コマ漫画という磁場。
 それはひょっとして僕が望んだようなえいえんじゃないかって、そんな気がしたんですけどね。とはいえ主人公が出てこないというのは辛すぎます。どんなヘタレでもダメダメでもいい、手とアレがあれさえすればいいぢゃないか! (ちなみに左画像は「にゃんことカイザー」)

 そういう意味で、ギャルゲー主人公という存在に対して謙虚になりたいなら萌え4コマ漫画はオススメかもしれません。ま、オススメはしませんがね(どっちだよ)。


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